坪内隆彦
アジア英雄伝
日本人なら知っておきたい25人の志士たち
展転社 2008
編集:今村裕 協力:南丘喜八郎・安田裕幸・山浦嘉久 解題:クリストファー・スピルマン 装幀:妹尾善史 序:伊達宗義・頭山興助
本書にとりあげられた25人は、こうした「興亜」に人生の活動と思想を捧げたアジア主義者ないしは大アジア主義者だとみなされている。いずれも日本に亡命するか、日本が設立した機関になんらかかかわった。全員が「興和」の理想を掲げていたかどうかは疑問がのこるけれど、それでもこれだけの近代アジアの志士の略伝が列伝ふうに並ぶのはめずらしい。

 アジアが欧米の支配下におかれはじめたのは約500年前からである。アジア進出に先んじたのはポルトガルとスペインで、両国はイベリア半島におけるイスラム勢力に対する国土回復「レコンキスタ」を達成すると、大航海時代の先頭を切って海外進出をはたしていった。
 ヨーロッパ大陸からインド洋へ、東南アジア諸島へ、東シナ海とアジア大陸へ、南アジアからポリネシアへ、アメリカ大陸へ。
 ポルトガルは1497年のヴァスコ・ダ・ガマのカリカット到着を皮切りに、アフォンソ・デ・アルブケレが1511年にマラッカを征服してインド総督となって以降、東南アジア沿岸部に拠点を築いていった。スペインは1521年にマゼランの艦隊がフィリピンに到達して、1571年にはマニラを含むフィリピン諸島を征服した。やがてこれらすべてが植民地化されていく。
 日本も蚕食される危機を迎えていたのだが、大きく襲うには航海地理上では遠く、信長や秀吉も警戒を強めて早めにキリシタン禁制にとりくみ、植民地化を免れた。鎖国(海禁)に踏み切ったのも大きい。

 ポルトガル・スペインについでオランダが東インド会社をつくって、アジア進出をはたした。1619年にバタビア(ジャカルタ)に要塞を築き、その後はインドネシア全域を植民地とした。
 同じく東インド会社を仕立てたイギリスは18世紀に入ってアジア進出を敢行し、まずインドに点々と植民地を確保したのち、1824年にマレー半島を領有すると、続いて中国にアヘン戦争を仕掛け、1886年にはピルマを英領インドに併合した。
 フランスはインドをめぐってイギリスと戦ったのち(ブラッシーの戦い)、ベンガル湾から南シナ海のほうへ進出しメコンデルタ地域を支配、そこをインドシナと名付けた。インドとシナの間域だからだ。1873年にハノイを占領すると、84年にはグエン王朝を滅亡させた。アメリカは1898年に米西戦争でスペインを破ったのが大きく、スペイン統治下のフィリピンを領有した。ロシアはどうしたか。南下政策とともに北アジアに迫り、清の弱体化につけこんで満州のアムール川以北と沿海州を領有した。
 アジアは次々に蹂躙されたのである。自国民族による近代化は遅れた。なかで日本が鎖国後の明治維新をもって近代化の先頭に立つことになり、そこに近代アジアの「解放」をめざす狼煙が上げられた。孫文が共鳴し、インドのビハリ・ボースやフィリピンのアギナルドやボニファシオが呼応し、反英・反仏・反米の民族主義的な闘争ともなって、そこに日本の進出(侵攻)が加わっていった。

第一次世界大戦勃発時の勢力図

 このことを日本では「興亜」の活動の波及だと捉える一陣がいた。興亜主義者たちである。興亜主義は「大東亜主義」とも「大アジア主義」とも称されて、王道楽土(皇道楽土)を旗印とした大東亜共栄圏を理想とするもので、それをもって欧米列強の脅威と蚕食からの独立と解放を獲ち取ろうというものだ。
 危険な理想といえばかなり危険な理想であったが、この時期にしか席巻できないアジアン・ナショナルな思想でもあった。
 日本で興和の狼煙を最初に上げたのは、明治10年(1877)設立の興和会(当初は振亜社)と翌年福岡に設立された玄洋社(当初は向陽社)である。興亜会は大久保利通・曾根俊虎が起草して長岡護美・渡辺洪基・金子弥兵衛らが結成した反欧米・反薩長型のアジア解放促進を謳う結社で、玄洋社は平岡浩太郎・杉山茂丸(1298夜)・頭山満(896夜)・箱田六輔・福本誠らが結成した、やはり大アジア主義を標榜する結社になっていった。
 この「興和の波」はその後、荒尾精の漢口楽善堂、井上円了・島地黙雷・三宅雪嶺・志賀重昂らの政教社、康有為・梁啓超・孫文らの支援と「支那保全」をめざした東亜同文会、内田良平の黒龍会、大川周明・満川亀太郎・高畠素之・北一輝(942夜)らの猶存社(前身は老荘会)などなどにつらなっていった。
 こうした興和思想が何を標榜しようとしたか、その骨法は初期には樽井藤吉の『東亜合邦論』(1893)や内田良平の『日韓合邦秘史』(初稿1903)に、その後は大正10年(1921)の満川亀太郎の『奪われたるアジア』(書肆心水)、あるいはその翌年の大川周明『復興亜細亜の諸問題』(中公文庫)などに集約されている。

 本書にとりあげられた25人は、こうした「興亜」に人生の活動と思想を捧げたアジア主義者ないしは大アジア主義者だとみなされている。いずれも日本に亡命するか、日本が設立した機関になんらかかかわった。全員が「興和」の理想を掲げていたかどうかは疑問がのこるけれど、それでもこれだけの近代アジアの志士の略伝が列伝ふうに並ぶのはめずらしい。
 著者は日本経済新聞出身のジャーナリスト兼ライターの坪内隆彦で、「月刊日本」連載の『アジアの英雄たち』をもとに充実させた。タイトルに『アジア英雄伝』とあるように、あからさまな大アジア主義称揚の視点で綴られている。だいたい冒頭に頭山興助の「推薦の辞」が飾られているのだが、この人は頭山満のお孫さんだし、あとがきには田中正明の『アジア独立への道』(展転社)からの影響を記している。田中は松井石根の私設秘書から近現代アジア史の著述に向かい、『パール博士の日本無罪論』(小学館文庫)、『東京裁判とは何か』(日本工業新聞社)などを書いた。
 そういう一冊ではあるのだが、当時の大アジア主義にかかわった人物を点検するには便利な一冊になっている。人選が妥当かどうかは保留したい。たとえば50人を選べばもっと細かい立体起伏を描くことになったろう。
 では、案内する。一人ひとりを詳しくは紹介できないのでかなりはしょることになるが、本書が近現代アジアの各国の志士たちの独立運動の苦闘を、どう跡付けたいのかを拾ってもらえればいい。生年順にしておいた。あやしい人物もいるが、歴史には「あやしい」と思われること自体の功績も過剰もあって、その解読も、一般化しやすい「正常」の解読以上に重要なのである。千夜千冊としてはやや長い分量になるけれど、これはぼくがこれまで近現代アジアに関する本を採り上げてこなかった報いだ。あしからず。

◆金玉均◆(朝鮮 1851~1894)

1882年、長崎で撮影された金玉均。当時は福沢諭吉を頼り、日本へ遊学していた。

 15歳のとき、アメリカのシャーマン号による平壌攻撃とフランス艦隊による江華島攻撃に出会った。しかし貴族階級の両班(ヤンパン)はこうした対外危機に対応することなく門閥政治にあけくれ、国父の大院君は攘夷に徹していた。金玉均(キム・オクキュン)は実学派の朴桂寿の門に学び、20歳のころは開化派の劉大致や呉慶錫に感化され、また駐日公使の書記官だった黄尊憲が書いた『朝鮮万策』に影響されていた。この本は「親中国・結日本・連美国」を提唱していて、ロシアを警戒していた。
 1882年(明治15)、副島種臣が興亜会に朝鮮視察団の魚充中を招き、金はその魚に促されて同志の徐光範とともに来日することになった。福沢諭吉(412夜)が連日もてなし、井上馨・大隈重信・後藤象二郎・内田良平らと親しくなった。
 やがて母国朝鮮の改革の必要を確信し、クーデターによる政権奪取をめざし、「両班政治の打倒、大院君の復帰、事大外交の撤廃、中国への朝貢の廃止」などをスローガンに用意周到、攻め入るのだが、閔妃(みんぴ)一派が清国軍に保護と支援を求めたため失敗した。参加した43人の同志で生きのびたのは金ら9名だけだった。
 日本に亡命した金は小笠原に潜伏し、そこで玄洋社の来島恒喜・的野半介に守られながら捲土重来を期すものの、その後は北海道・栃木・東京などを転々とした。二松学舎で三島中洲や岡本黄石に学び、慶応義塾で福沢に学んだ19歳の須永元は金に私淑するほど敬愛し、潜伏する金の世話を買って出た。故郷の栃木県の佐野ではながく匿っている。
 しかし、なんとか祖国の改革を実現したい金は、まわりが止めるのも聞かず、上海にわたって李鴻章と交渉しようとして、中国に密航した。けれども上海の東和洋行に寝泊まりしていたところを、金の動向をさぐっていた袁世凱の差し金で暗殺された。来島恒喜はのちに大隈重信の暗殺に臨んで自害した。

金玉均氏遭難事件
1894年3月28日、金は暗殺者 洪鐘宇の凶弾に倒れた。

 佐野の妙顕寺には金玉均が揮毫した扁額「開本山」が掲げられている。金の世話をした須永元が佐野の人で、その檀家寺の縁で揮毫したのであろう。
 【参考】古筠記念会館『金玉均伝』上下(慶応出版社)、琴秉洞『金玉均と日本』(緑陰書房)、朝鮮社会科学院歴史研究所編『金玉均の研究』(日本朝鮮研究所)、『朝鮮開化派選集』(平凡社東洋文庫)、姜健栄『開化派リーダーたちの日本亡命』(朱鳥社)、月郷達彦『福沢諭吉の朝鮮』(講談社選書メチエ)、呉善花『韓国併合への道』(文春新書)、角田房子『閔妃暗殺』(新潮文庫)、室井康成『事大主義』(中公新書)

◆康有為◆(中国 1858~1927)

1905年の肖像写真。撮影は公人のポートレイトで名を馳せたエルマー・チッカリング。

 朱九江の礼山草堂に学んで万木草堂をおこし、大同三世説を唱えて経世済民の理想社会を展望し、日本の変法(明治維新)に倣って西太后時代の渦中で変法自彊運動を主導した。政治思想的には孔子に依拠して公羊学を深めたが、その人格は清廉潔白で俗化を隔て、道教の五勝道を実践するようなところがあった。
 日清戦争の敗北がきっかけだった。下関条約の講和条件に屈辱的なものを感じ、1888年、清の光緒帝に変法を上奏、かつての洋務運動の限界を指摘した。採用されて「戊戌(ぼじゅつ)の変法」の中心になるのだが、西太后のクーデター(戊戌の政変)によって失脚、光緒帝も幽閉されたため日本に亡命した。

左:光緒帝、右:西太后

 日本では平岡浩太郎や宮崎滔天(1168夜)が田野橘次や柏原文太郎に康有為の世話を任せ、井上雅二が同文会をつくって拠点としていった。「同文」とは国や民族をこえて同じ言葉によって世界を考えようとすることをいう。
 こうした動向に羅孝高・梁啓超らの康有為の優秀な弟子が交じり、1898年には東亜会が康有為の活動思想を全面支援することになった。陸鞨南・三宅雪嶺・福本日南・犬養毅・平山周らが力を貸し、徐勤や唐才常が仲介をはたした。徐勤は孫文が提唱した中西(ちゅうせい)学校が横浜大同学校と改称されたときに校長に就任し、唐才常は南学会をおこしている。この同文会と東亜会が合流して「東亜同文会」になったのである。かくて康有為の大同思想は日本のアジア主義の中で苛烈になっていった。
 【参考】坂出祥伸『康有為』(集英社)、『東亜同文会と中国』(慶応義塾大学出版会)、東亜同文会編『対支回顧録』上下(原書房)

 ◆アンドレス・ボニファシオ◆(フィリピン 1863~1897)

ヒスパニック系アメリカ人向け週刊誌「 La Ilustración Española y Americana」に掲載されたイラストレーション(1897年2月8日)。キャプションには「タガログ共和国の大統領」と記された。

 フィリピンには千年王国思想による民衆運動が芽生えていて、1830年代にはサン・ホセ信徒団が組織されて、70年代にはスペインの圧政を逃れるコロルム(Colorum)という地下活動がくりひろげられていた。また「パション」(Pasyon)とよばれる奇跡劇も流行していた。80年代、海外の大学留学体験をもつ知識階級「イルストゥラード」(ilustrado)が登場し、ホセ・リサールやデル・ピラールらは民族の自覚や独立を呼びかけるプロパガンダ運動を始めた。
 マニラのスラム街トンドに生まれたボイファシオは、そのうちのリサール主宰のフィリピン同盟に加わるのだが、リサールが流刑されたので、「カティプーナン」(祖国のための結社)を立ち上げた。多くのタガログ人が加わった。この結社はカトリシズムやコロルムやパションに裏打ちされていた。しばらく秘密の活動を続けていたのだが、官憲に発見され弾圧が始まると、1896年8月、蜂起に踏み切った。準備不足で失敗した。

「パション」に集まる現代のフィリピン人たち
パションはフィリピンで四旬節に詠唱されるイエス・キリストの受難詩である。現代ではポエトリーリーディングや演劇など形態は様々だ。

 ここからカティプーナン内部の指導者争いが生じ、エミリオ・アギナルドとボニファシオが対立、事態は風雲急を告げる。アギナルドは武器を日本から調達しようと試み、日本に派遣されたマリアノ・ポンセが孫文の仲介で宮崎滔天・平山周と交渉、川上操六と中村弥六が動いて、大倉喜八郎が三井物産から老朽船の布引丸を購入し武器弾薬を積み込んで出港するまで至ったのだが、折からの台風で上海沖で難破した。大倉は御用商人からスタートして、日清・日露戦争で巨万の富を築き、渋谷栄一らと日本の商工の骨格づくりに尽力した。長男の喜七郎がホテル・オークラをつくった。
 対立していた両派は、合同会議によってカティプーナンに代わる革命政府を樹立した。大統領アギナルド、副大統領マリアノ・トゥリアス、総司令官アルテミオ・リカルテが選出され、ボニファシオは内務大臣にとどまった。怒りを堪えきれなくなったボニファシオはカティプーナンの復活を訴えるのだが、逮捕され処刑された。その直後の1898年4月、アメリカがスペインに宣戦布告した。米西戦争である。アメリカはフィリピンを領有し、多数のタガログ人が虐殺された(約60万人のフィリピン人が殺された)。
 アメリカは「独立や分離を主張した者」を処罰するという扇動法、不法行為を摘発する山賊行為法、住民を強制移動させる集中移住法などを連発、フィリピン独立は一気に遠のいた。それでもサンミゲルやギリイエルらが新カティプーナンの設立をめざしたのだが、いずれも罠に堕ちるように消えた。
 アメリカはカティプーナン精神を途絶えさせたいのである。そこでホセ・リサール(1896年に銃殺)を国民的英雄に祭り上げるという画策に出た。いっとき日本に亡命していたリカルテらはこの陰謀に対して、日本からの援助を待ち望んでいた。
 【参考】レナント・コンスタンティーノ『フィリピン民族の歴史』(井村文化事業社)、池端雪浦『フィリピン革命とカトリシズム』(勁草書房)、永野善子『歴史と英雄』(御茶の水書房)

◆アナガーリカ・ダルマパーラ◆(セイロン 1864~1933)

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世界宗教会議に参加するダルマパーラ(1893)
左からウィーラチャンド・ガンディー、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、ダルマパーラ、ガストン・ボネーモリ。

 【参考】ビクシュ・サンガラクシタ『ダルマパーラの生涯』(樹昌院)、渋谷利雄『南アジアの民族運動と日本』(アジア経済研究所)

 ◆孫文◆(中国 1866~1925)

1924年、広州で過ごす孫文。晩年は北京、南京、広州などの大都市を転々としていた。

 孫文には有名な「大アジア主義」という講演があるものの、興和思想の持ち主だったかどうかはいまなお議論されている。広東省香山県の貧農の子に生まれ、兄のいるハワイでイオラニ中学へ、1882年にはオアフ大学に進み、翌年には郷里で医学校に入って医師になった。
 そのころすでに清朝の体たらくに業を煮やしていたのであろう、1894年にハワイで「興中会」を設立して清朝打倒をめざした。けれども資金は集まらず、武器調達もままならない。このとき支援を引き受けたのが梅屋庄吉である。梅屋はM・パテー商会をつくった日本最初の映画王である(のちに日活の創業に尽くした)。このあとの孫文の革命資金のために総額1兆円(2兆円とも)をつぎこんだ。
 孫文はいわば決起主義者であった。だから失敗も多い。日清戦争後の1895年の広州蜂起は失敗、米英をまわって日本に亡命して、陳少白の紹介で宮崎滔天や内田良平と知り合い、滔天の兄の彌蔵の理想に共鳴した。1900年の恵州蜂起も失敗した。康有為の弟子の唐才常が漢口で挙兵したのに応じたものだったが、弾薬が不足した。このとき突撃隊長を引き受けた山田良政は戦死した。
 横浜・アメリカ・ヨーロッパをまわった孫文は1905年に日本に戻った。滔天が、華興会を率いていた黄興を紹介し、飯田町の富士見楼で黄興・宋教仁らが中心になった孫文歓迎会を開き、内田の提唱で中国革命同盟会が結成された。章炳麟・蔡元培らの光復会も合流し、機関誌「民報」が創刊された。その1年後、孫文は初めて三民主義(民族・民権・民主)を公言する。1911年、湖北省の武昌での蜂起がついに成功した。各地で蜂起が連続し、ここに清朝からの独立が宣言された。「辛亥革命」である。
 山県有朋(1722夜)らは中国に共和国が出現することに警戒していたので、中華革命に干渉したがった。内田は山県に「むしろ支那革命(辛亥革命)を成就させ、一方で満蒙への波及を防止して日本が満蒙を独立させるのがいい」と進言した。内田は犬養・頭山・小川平吉・古島一雄・滔天と有隣会をおこして、山県陸軍の反革命的工作を牽制もした。頭山は頭山で善隣同志会を組織して辛亥革命支持を表明した。こうして1912年1月、孫文の革命は成就、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に誕生した。
 孫文は国民党を組織、宋教仁を総理とした。しかしここで宣統帝の退位にともなってトップの座についた袁世凱が巻き返しをはかった。権力の拡張をしくむとともに国民党の弾圧に乗り出し、宋教仁を暗殺した。袁世凱打倒の第二革命がはじまるのだが、袁世凱は議会解散に踏み切り、帝政復活を画策してみずから中華帝国大皇帝を称した。孫文は袁と妥協したのがよくなかったと批判された。

左:袁世凱、右:孫文

 各地に地方軍人が力を得て、軍閥割拠の様相を呈した。第三革命になった。かの地でロシア革命が成就してソビエトが生まれた1917年、孫文は広州で広東群政府をつくるのだが、うまくいかない。陳炯明とも対立、広州を追われ、また日本に亡命した。このとき同じ客家(はっか)の血をひく宋慶齢と結婚した。橋渡しには梅屋庄吉がかかわったという。
 世界はロシア革命の余波と第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制のもとに入っていた。1919年1月、ヴェルサイユ条約に山東省の権益がドイツから日本に委譲されたことをめぐって、中国では民衆による抗日運動が始まった。五・四運動である。これ以降、中国では共産主義やマルクス主義への共感が強くなり、陳独秀や毛沢東(869夜)の「連ソ容共」「労農扶助」のイデオロギーが熱くなっていった。
 孫文もこの趨勢に加担し、1923年にはソビエト代表のアドリフ・ヨッフェと会談をし、中国統一運動へのソ連の支援が確約されたと発表された(孫文・ヨッフェ共同宣言)。こうして翌年からは「国共合作」が始まっていくのである。国民党と共産党は手をつないだのである。
 孫文は1924年に神戸高等女学校で「大アジア主義」の講演をした。王道を唱えることは仁義・道徳を主張することで、覇道を唱えるのは功利と強権を主張することであり、王道を進むことこそが大亜細亜主義の基礎であると述べ、日本人に対して「あなたがたは東洋の王道を選ぶのか、西洋の覇道に屈するのかはっきりしなさい」と加えた。中野正剛(575夜)は、あれは西郷(1197夜)の思想そのものだったと述懐した。
 その4カ月後、「革命いまだ成らず」の言葉をのこして、死んだ。その後の中国がはたして孫文が夢見たものだったかどうか、いまなおこのことについては中国は黙したままである。
 【参考】孫文『三民主義』(岩波文庫)、孫文『孫文革命文集』(岩波文庫)、陳舜臣『孫文』上下(中公文庫)、深町英夫『孫文』(岩波新書)、岡本隆司『袁世凱』(岩波新書)、横山宏章『孫文と陳独秀』(平凡社新書)、葦津珍彦『大アジア主義と頭山満』(日本教文社)、『内田良平自伝』(葦書房)、読売新聞西部本社編『梅屋庄吉と孫文』(海鳥社)

 ◆アルテミオ・リカルテ◆(フィリピン 1866~1945)

1944年のリカルテ。一時的に訪日中であった。東京世田谷にあった殖民義塾の玄関前に立っている。

 フィリピンの不屈の闘士である。日本滞在も長く、横浜山下公園に「リカルテ将軍記念碑」がある(岸信介の名が記されている)。ルソン島最北端のバタックの生まれ。青年期サント・トーマス大学で文学士を取得、そのころホセ・リサールらの「イルストゥラード」が活躍していたが、かれらに倣ってスペイン海外留学をすることなく、民族主義教育に向かうべく小中学校の校長になり、ついでボニファシオのカティプナーンに参加した。
 革命軍総司令官となり、アメリカが全土制圧をめざしていたときも特殊工作部隊でアメリカ軍中央施設に斬り込んだ。すぐさま逮捕され、90人の同志とともにグァム島に流刑された。アメリカに忠誠を誓えば祖国に戻れると言われたが、リカルテはこの懐柔策に屈せず、脱走。カトリック僧となってマニラに潜入すると、バターン半島マリベレス山を独立のための砦として捲土重来を期した。
 アギナルドとの共闘をせず、単独で蜂起を企てるも密告で逮捕され、6年の監獄生活を強いられた。一片の紙も一冊の本も与えられなかったという。刑期をおえたリカルテにアメリカはまたまた忠誠誓書への署名を求めたが、これを拒否。即日、国外追放が決定され、香港の東北の榕樹島(ラマ島)に監禁された。無人島に近く、海賊が出入りするようなところだった。ところが見張りの兵士たちがしだいにリカルテに感心するようになり、海賊たちも親しみはじめ、その噂がアジア各地に伝わった。
 インドの独立志士との連携を危惧した当局は身柄を上海に移し、未決監に投じたのだが、1915年、ここを脱出すると日本に逃れた。手引きをしたのは恋人のアゲタだった。49歳になっていた。ビハリ・ボースや玄洋社の面々が支援するなか、瀬戸で土工に身をやつしたり、後藤新平の手配で駒場の民家に移って海外植民学校でスペイン語を教えたりして時を待った。1923年には横浜山下町に潜んで、「カリハン」という小さなフィリピン・レストランを営んだ。こっそり同志たちが集まったが、本人は愛犬を連れて山下公園を散歩していた(このため山下公園にリカルテ将軍記念碑が立てられた)。太田兼四郎が世話をした。日本亡命は20年にわたり、リカルテは日本文化や武士道に関心をもった。
 1934年、アメリカ議会は十年後のフィリピン独立を承認、独立準備政府(フィリピン・コモンウェルス)が発足して、初代大統領にリカルテのかつての部下のケソンが就いた。ケソンは訪米の帰路、横浜に立ち寄ってリカルテに勲章を渡し、終身年金を申し入れて帰国を促したのだが、「星条旗がひるがえるフィリピンに戻るのはいやだ、祖国が完全に独立してから帰る」と答えた。 1941年12月、リカルテは太田兼四郎を副官として帰国、日本軍のマニラ入城とアメリカ軍による占領終焉を確認した。
 リカルテはその後の日本軍の横暴なふるまいには失望していたが、孫のビスを日本に留学させた。

フィリピン・コモンウェルス、1935年3月23日の憲法総会
左からジョージ・ヘンリー・ダーン、フランクリン・ルーズベルト、マニュエル・ケソン。

 ◆李容九◆(朝鮮 1868~1938)

1900年代の李容九の肖像

 いまだ誤解の中にいる志士だ。李容九(イ・ヨング)は韓国では日韓併合に加担した売国奴のレッテルを貼られたままで、復権されていない。日韓の対等合邦をしたいと考えていたはずなのだが‥‥。
 両班のなかでも最高位の門閥に生まれながら、東学党の2世教主の崔時享に師事、23歳のときにはその万教帰一の宗教思想に傾倒した。閔妃一派の専横に反発し、金玉均暗殺ののちの1894年4月、東学党が全捧準を指揮官として決起したときも、参謀格で参加していた。
 この東学党の欄に呼応したのが、釜山にいた大崎正吉の事務所を拠点にしていた武田範之・吉倉汪聖、「二六新報」主筆の鈴木天眼、玄洋社の内田良平・大原義剛らで、糾合して「天佑侠」を名のった。決起は失敗、全捧準は捕らえられて死刑、内田は追われ、李容九はその後の日本軍との戦闘に敗れてしばらく地下に潜った。
 1898年、東学党への一斉検挙が始まり崔時享は処刑、李も逮捕ののち百日拘留された。出獄後は3世教主の孫乗煕が東学党を天道教に改めたのでこれを支えようとしたが、教主が反日姿勢を強めたため、新たに進歩会をおこし、日本に亡命していた尹始炳の維新会と合流して「一進会」を設立した。1901年に来日、樽井藤吉の『大東合邦論』に出会って日韓の対等合邦に共感した。

一進会の名が刻まれたアーチ
1907年、皇太子だった大正天皇が訪韓を果たした。このアーチは歓迎のために建てられたものである。冠木には皇室を象徴する菊模様が刻まれ、太極旗と日章旗がはためいている。

 この動きを察知した権藤成卿(93夜)は合邦後の社稷(しゃしょく)のための研究にとりくんで『自治民範』にまとめ、久留米勤皇党の流れをくむ武田範之は万教帰一を『大乗起信論』に読みこみ、越後顕聖寺の玄道和尚について得度したのち、朝鮮半島に入って李容九が組み立てようとしていた侍天教の教義にヒントをもたらした。しかし、話はそこまでである。桂太郎内閣も山県有朋内閣も対等合邦などまったく考えていなかった。日本は日韓併合を促進させていったのである。
 遺児がいた。李容九は子宝に恵まれなかったため、養子の李碩奎を愛児としていた。日本では大東国男と名をつけられ、一進会が京城につくった光武学校の日本語教師をしていた吉田鉄心住職のもとに預けられた。その後、大磯に移り戸塚小学校に通い、立教大学をへて黒龍会の細井肇によって興亜学塾に入った。中山優・下中弥三郎らが講師をし、ビハリ・ボース、クォン・デ、クルバンガリーなどが顧問をしていた。この塾は敬天塾に発展し、渋川善助が李碩奎に共栄アジアの理念を強く植え付けた。遺児は父の名誉のための著書『李容九の生涯』を書いた。
 【参考】大東国男(李碩奎)『李容九の生涯』(時事通信社)、西尾陽太郎『李容九小伝』(葦書房)、呉知泳『東学史:朝鮮民衆運動の記録』(平凡社)、橋本健午『父は祖国を売ったのか』(日本経済評論社)、樽井藤吉『大東合邦論』(大東塾出版部)、川上善兵衛『武田範之伝』(日本経済評論社)

 ◆マハトマ・ガンジー◆(インド 1869~1948)

インドの糸車を廻すガンディー。伝統的な製法に寄与し、英国製工場製品の不買を訴えた

 詳しくは第266夜の『ガンジー自伝』(中公文庫)、および第1393夜の『ガンディーの経済学』(作品社)を読んでもらいたい。中公文庫の解説も、ぼくが書いた。
 本書ではジョン・ラスキン(1045夜)の経済芸術思想への共鳴、マダム・ブラヴァツキーの神智学への共鳴が紹介されているとともに、大川周明が『復興亜細亜の諸問題』でガンジー思想に強い関心を示していること、大川の猶存社にも参加していた鹿子木員信がインド独立運動にかかわったことなどが強調されている。1942年に「ハリジャン」紙に掲載されたガンジーの日本人に寄せた言葉がある。こういうものだ、「あなたがたは崇高な高みから帝国主義の野望まで堕ちてしまわれたのです。あなたがたはその野心の実現に失敗し、アジア解体の張本人になりはてるかもしれません」。
 【参考】ガンディー『真の独立への道』(岩波文庫)、ガンディー『わたしの非暴力』1・2(みすず書房)、『ガンディー自叙伝』1・2(平凡社東洋文庫)、『ガンジー自伝』(中公文庫)、ガンディー『私にとっての宗教』(新評論)、ガンディー『不可触民解放の悲願』(明石書店)、ガンディー&タゴール『万物帰一の教育』(明治図書出版)、ガンディー『獄中からの手紙』(岩波文庫)、エリク・エリクソン『ガンディーの真理』1・2(みすず書房)、ロベール・ドリーシュ『ガンジーの実験』(文庫クセジュ)、ヴェド・メータ『ガンディーと使徒たち』(新評論)

 ◆オーロビンド・ゴーシュ◆(インド 1872~1950)

インドの反英独立運動家、霊性指導者、哲学者、詩人、インテグラル・ヨーガの創始者。指示者からは神の化身とみなされた。

 西洋の高度な教養と深いインド哲学をあわせもつ近代インドを代表する哲人だ。ぼくはこの名を稲垣足穂(879夜)から初めて聞かされた。その「スーパーマインド」論や「インテグラル・ヨーガ」は20世紀の「霊性」を示した。
 5歳でアイルランドの尼僧が経営するロレット学園に入り、7歳でイギリスでラテン語研究のドゥルウェット牧師の家に滞在し、12歳でセントポール校に入学、ギリシア語・ドイツ語・イギリス文学・フランス文学に親しんだ。シェリーの詩(とくに「イスラームの反乱」)が好きだったようだ。セントポール時代には「蓮華と短剣」という秘密政治集会に出入りした。
 17歳でケンブリッジ大学キングスカレッジで教養の数々に浸り、1893年にインドに戻った。ただちに国民会議派の妥協的政策を批判し、「インド・ブラカッシ」の編集にとりくんだ。同じような主張を「ケーサリー」を編集していたバール・ガンガーダ・ティラクも展開していた。
 インド総督にカーゾンが就任すると、イギリスのインド支配がいっそう強まった。抵抗する者がふえてきたが、最も急進的なのがオーロビンドだった。「イギリスからの独立」を最初に表明し、タゴールの甥のスレンドラナートらと革命組織「アヌシニン・サミティ」を結成した。スレンドラナートは岡倉天心の影響も受けていた。
 1905年、総督カーゾンはベンガル分割案を布告した。反英意識が高いベンガル州を西のヒンドゥ圏と東のイスラム圏に分割することで、両者の勢いを削ぐのが狙いだったが、オーロビンドはただちにベンガルに移って国粋党をつくり、英語日刊紙を活用してプロパガンダを展開した。そこにやっと国民会議が「スワデーシ」(国産奨励)と「スワラージ」(自治奨励)を決議してイギリス商品のボイコットに乗り出した。ガンジーが指導力を見せはじめていた。
 後期のオーロビンドは政治活動から離れ、グジャラートの首都パロダの書記やパロダ大学の学長となり、インド文化や登用文明の解明に集中し、サンスクリットの修得からインド古典の解析に向かっていった。ラーマクリシュナとその弟子ヴィヴェカーナンダの影響が大きかった。ヴィヴェカーナンダの弟子がニヴェディータで、彼女は天心の『東洋の理想』の序文を書いた。
 晩年はヨーガに傾注して、哲学雑誌「アールヤ」を刊行しながら、ヴェーダ、バカヴッド・ギーター(1512夜)、ヨーガを論じ、『神の生命』をまとめた。そこには「存在・知識・歓喜」を統合した「サッチッダーナンダ」を本性とする霊感思想が確立していた。その伝動はポール・リシャールとその妻ミラが引き取った。大川周明は来日したリシャール夫妻と昵懇になり、リシャールが『告日本国』を書くときのヒントを提供した。その後「マザー」と呼ばれたミラは、オーロビンドの思想と実践をアシュラムによって広めていった。

死の床に横たわるオーロビンド(1950年12月)

 【参考】オーロビンド・ゴーシュ『神の生命』(文化書房博文社)、オーロビンド『スピリチュアル・エボリューション』(アルテ)、北川清仁『シュリー・オーロビンドの思想』(印度哲学13号)、斎藤昭俊『近代インドの宗教運動』(吉川弘文館)、森みどり『近代ヒンドゥー教の思想と運動』(天理大学おやさと研究所)、大川周明『復興亜細亜の諸問題』(中公文庫)

 ◆ムハンマド・イクバール◆(パキスタン 1877~1938)

独立以前のインドで活躍したムスリムの詩人、哲学者、政治家。ペルシア語、あるいはウルドゥー語で書かれたイクバールの詩は、現代において最高峰といわれている。

 独立以前のインドのウルドゥー語とペルシア語の詩人で、ムスリムの哲人でも政治家でもあった。インドに住むムスリムがインドとは別の独立国家を建設することを謳い、このことがのちのパキスタンの誕生につながった。この提案はしばしば「アッラーマ・イクバール」と呼ばれる。
 家族はパンジャーブ地方のヒンドゥ教バラモンであったが、イスラムに改宗した。地元のスコッチ・ミッション大学で語学・歴史・詩歌・宗教を修め、ラホールの大学に進んで英文学・アラビア語・美術史を修め、1907年にはケンブリッジのトリニティ・カレッジとリンカーン・カレッジで文学士や法学士を取得すると、ついでは弁護士ともなって、実に多彩な才能を発揮した。しかし最も得意としたのはウルドゥー語やペルシア語による詩作で、そこには13世紀のルーミーのスーフィズムが称えられるとともに、ゲーテ(【KDS】巻尺)、ニーチェ(1023夜)、ベルクソン(1212夜)のイスラーム化さえ仕組んでみせていた。
 こういうところから、日本では西田幾多郎と比較されることがあるのだが、西田よりずっと詩魂に富んでいるし、政治思想にも長じていた。イクバールにとっては「法としての独立国家」がありえたのである。

ムスリムの政治家たちとイクーバル
イクバール(左から3番目)アリガルイスラム大学において。

 【参考】ムハンマド・イクバール『ムーサーの一撃』(大同生命)、イクバール『ジブリールの翼』(大同生命)、イクバール詩集『隊商の旅立ちを告げる銅鑼の音』(花押社)、アリー・シャリーアティー『イスラーム再構築の思想』(大村書店)

 ◆ウー・オッタマ◆(ビルマ 1878~1939)

ビルマ (現ミャンマー) の民族主義運動創始者の一人。過激な言動は宗門界から異端視されたが、植民地時代におけるビルマの民族運動に強い影響を与えた。日本に長期間滞在した体験記『ジャパン』(日本国事情) (1915) を出版している。

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 かつてオッタマ僧正といえばガンジーと並び称された。16歳で得度して、3度にわたった逮捕されながらも、つねにイギリスの支配からの独立を志し、反権力を貫いた。
 ビルマ(現ミャンマー)の近代はイギリスに蹂躙された歴史である。1824年にコンバウン朝ビルマはイギリスに対してベンガル地方の割譲を要求したのだが、イギリスはただちにビルマ攻撃を開始、ベンガルをあきらめさせるとともに南部のアラカンとテナセリウムを占領した(第一次英緬戦争)。1852年はふたたび侵攻して下ビルマを併合(第二次英緬戦争)、さらに1885年に上ビルマをイギリス領に併合した(第三次英緬戦争)。これで王朝は滅亡、ビルマは英領インドの一州となった。ビルマは多民族社会・多宗教社会を強いられ、イギリスは分割統治がしやすくなった。
 オッタマはアラカンの里で生まれ、5歳で金塔寺のラザラマ・サヤダウの仏弟子となり、15歳のときはコルカタ(カルカッタ)でインド哲学とパーリ語を学んだ。1898年、オックスフォード大学に入って初めてビルマ史を知った。衝撃だった。本願寺の門主となる大谷光瑞との出会いも大きい。祖国ビルマの運命とアジアの復興が同時代の宿命をかかえていることを交わしあった。ただ、日本が日英同盟を結んだことは解せない。
 ところがその日本がロシアに勝った。不思議な思いにかられたオッタマは1907年に日本を訪れ、大谷の支援をうけて竜谷大学に寄宿して、日本がどういう国かを研究しはじめた。仏教学の禿氏祐祥、アジア史の若林半とも親交を深め、大学で英語やパーリ語を教えるようになった。語学的才能がそうとうにあったようだ。関西弁も流暢になり、頭山満はその人格に惚れた。帰国後の1914年、『日本国事情』を刊行した。
 ビルマではラングーン大学の学生が中心になって立ち上げた青年仏教徒運動(YMBA)が広まりつつあった。オッタマはその急進派たちに接触すると、激しい反英闘争に乗り出した。急進派はYMBAの中心となり、組織名をビルマ人団体総評議会(GCBA)とし、さらに活動を展開していった。ビルマ統督が拘禁・国外追放・流刑などの弾圧をはじめたので、オッタマも1年にわたる禁固刑になるのだが、そこで民衆が「オッタマ奪回」を叫びはじめた。これにはイギリス当局が驚いた。
 1922年、出獄したオッタマはイギリスによる議員選挙をボイコットするように呼びかけた。ボイコット派は主導権を握るのだが、スワラージ党・独立党・人民党なども輩出、イギリスはこれらを巧みに扇動して分裂抗争をさせるように仕向けた。けれどもオッタマの反撃は続行された、当局はついにオッタマを逮捕して僧衣を剥奪し、3年の徒刑に処した。
 ところで、在日中のオッタマを大きく支援した日本人がいた。のちに松坂屋社長になる伊藤次郎左衛門祐民だ。名古屋で「いとう呉服店」を営んでいた。オッタマは名古屋の鶴舞公園でひらかれた関西府県連合共進会を見にきたおり、帰りに呉服店に立ち寄って美しい着物に見とれていた。そこで祐民が声をかけ、二人は意気投合、オッタマがビルマの将来を担う若者立ちに教育を受けさせたいと言ったことを引き受け、市内に「ピルマ園」を設けて、留学生を住まわせたのだった。のちに「楊輝荘」と呼ばれた。上坂冬子に『揚輝荘』というすぐれたノンフィクションがある。祐民は白金三光町にも「三光学舎」というビルマ次世代のための拠点をつくった。二人はのちに追放されていたインドで再会し、タゴールらと親しく話をはずませた。

伊藤次郎左衛門祐民とウー・オッタマ

 オッタマの死後、その遺志はタキン党の実弟シン・アリヤに受け継がれ、さらにビルマ独立をめざすアウン・サンに継承されていった(その長女がアウン・サン・スーチーである)。
 【参考】頴田島一二郎『オッタマ僧正:ビルマ独立の父』(文松堂書店)、鈴木孝『ビルマという国』(PHP研究所)、ハーヴェイ『ビルマ史』(原書房)、根本敬『ビルマ独立への道』(彩流社)、上坂冬子『楊輝荘:アジアに開いた窓』(講談社)、ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』(展転社)

 ◆クォン・デ◆(ベトナム 1881~1951)

ベトナムの王子として生まれたが、フランス植民地支配からの祖国解放運動のために活動。日本に助力を求めて来日したが、その後故郷に戻ることはなく杉並区の粗末な民家で客死した。

 ベトナムはフランスに支配されていた。1873年にハノイを、83年にグエン朝(阮朝)の王都フエを占領すると、翌年にはベトナム全土を植民地化した。クォン・デはグエン朝の創始者・阮福映の直系の5代目である。王族に生まれながら、紆余曲折のすえ祖国とアジアの解放をめざしたベトナム独立運動の父となった。途中、何度も日本の政策に失望もした。
 1905年、日本が日露戦争に勝利するとアジア各地に有色人種の矜持が芽生えた。ベトナムにも日本を学ぶ風潮がおこり、クォン・デの盟友のファン・ボイ・チャウが日本に潜行した。チャウは勤王党に属しながら、さらに王族の参画が必要だと感じてクォン・デを党首にした維新会(のちに越南光復会)を結成していた。翌年、クォン・デもフランス当局の目を欺くため農夫や火夫に身をやつしながら、日本に着いた。24歳だった。本郷の森川町の寓居に入ると頭山満・犬養毅・柏原文太郎・福島安正・根津一の庇護をうけた。

左がクォン・デ、右は革命家ファン・ボイ・チャウ。

 しかし、明治政府は日仏協商を結んで、フランスのベトナム支配を容認する政策に転じていた。フランスは日本に対してクォン・デらの身柄を引き渡すように求め、頭山らはそんな要求をのまないように進言するのだが、結局は国外追放するという妥協策に出た。1908年5月2日、ゲアン県出身の青年チャン・ドンフーはこの仕打ちに抗議して、「日本に裏切られたベトナム人の幻滅がどんなものかを見せる」と言って、小石川東峰寺で首を吊って自害した。
 翌年、クォン・デは日本から追放された。ベトナムに帰ることもできない。流転をくりかえしたのち、1916年に日本に戻り、渋谷の頭山邸に隠れながら、中村屋の相馬愛蔵が所持していた別荘に匿ってもらった。インドの志士ビハリ・ボースも同じように中村屋に匿われたことは、よく知られている。
 その後、興亜学院をつくっていた中村新八郎の宅に転じ、満川亀太郎や下中弥三郎(平凡社創業者)や松井石根の援助をもらっていた。松井は如月会の主宰者で、在日ベトナム人のための如月寮を梅ヶ丘駅前の病院全部を借りうけて提供した。約20人が如月寮で学習していたという。潜伏中のクォン・デを扶けていたもう一人に、猶存社の何盛三(か・もりぞう)がいた。エスペラントの普及に熱心だった何は、大東亜の理想はエスペラントで運べるのではないかと夢想していたふしがある。この考え方は大川周明にも感染した。
 ところでベトナムにはカオダイ教という新宗教がある。大正末期の1926年にゴミン・チェウとレバン・チャウンが創唱したもので、五教(儒教・道教・仏教・キリスト教・イスラム教)を土台にしているというので「カオダイ=高台」と名付けられた。クォン・デはレバン・チャウンと親しく、ともに万教帰一の思想を交わしていたにちがいない。

カオダイ教の祭壇

【参考】小松清『ヴェトナム』(新潮社)、森達也『クォン・デ:もう一人のラストエンペラー』(角川文庫)、田中正明『アジア独立への道』(展転社)、高橋保編『東南アジアのナショナリズムと宗教』(アジア経済研究所)、立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』(彩流社)

 ◆宋教仁◆(中国 1882~1913)

辛亥革命期の革命家。臨時約法の制定に尽くしたが、議会制民主主義の実現を恐れた袁世凱によって1913年に暗殺される。

 北一輝(942夜)が「真の愛国者」と称えた宋教仁だが、わずか32歳で袁世凱の放った刺客によって暗殺された。袁世凱の刺客によって散っていった志士は数多い。
 湖南省の桃源県生まれ。10歳で父を失い、科挙をめざしていたが、気丈な母から「とるにたらない科挙などに志をもつな、もっと広大で深遠なるものを求めなさい」と諭され、17歳のとき漳江書院に学び、多読・速読・深読に徹した。1903年に武昌文普通学堂に入り、東京から帰ってきた黄興が近くの張之洞の両湖書院で激越な排満革命の演説をぶつのを聴いて、民族革命の志をもった。
 さっそく黄興・陳天華らと華興会を結成し、翌年には長沙での蜂起を試みるのだが、まつたく失敗。また東京に戻ってきたものの、反逆罪で指名手配されていたので本名を名のれなかったのだが、日記をのこしているので足取りはつかめる。順天中学、法政大学速成科、早稲田大学留学生部予科に行っている。途中、『二十世紀之支那』を書いた。
 1905年、孫文がヨーロッパから日本に帰ってきた。宮崎滔天は孫文に黄興と宋教仁を紹介、ここに黄興の華興会、孫文の興中会・章炳麟・蔡元培の光復会が合流して中国革命同盟会が結成された。いよいよなのだが、ここで宋は心身を病み、病院生活をおくる。道徳的修養がほしくなった。そこで出会ったのが王陽明の陽明学や井上円了の東洋哲学だ。
 退院後、滔天のところに寄宿した。兄の民蔵が独自の社会改革の意志(土地の国有化など)をもっていることを知り、その著『人類の大権』を漢訳したくなった。フィリピンのマリアーノ・ポンセの『南洋の風雲』も漢訳した。それにくらべると孫文はやや能天気なところがある。少し距離をおくようになった。そのような宋に惚れこんだのが北一輝だった。北も孫文の国際主義がなまぬるいと感じていた。その点、宋の愛国主義には一途なところがあった。
 1907年、宋は支那浪人の古川清と馬賊工作のため満州に赴き、その土地の歴史に興味をもった。満州とは何なのか。ちょうど日本の憲兵隊が間島(かんとう)を占領して、この地域が朝鮮領域であることを宣告したばかりだった。日本に戻って上野帝室図書館で朝鮮王室編纂の古文書を調べているうちに、間島が朝鮮の領土ではないことを知った。びっくりした宋に、平山周はそれは湾政府に教えたほうがいい、そうすれば日本はその資料を秘匿できて、清国政府が不利になる。そう教えた。ところが、宋は『間島問題』を書き、なんと清国に送付してしまったのである。
 1911年、中国革命同盟会の武昌蜂起をトリガーに、14州が次々に清朝からの独立を宣言した。宋は黄興こそ群政府の中心になるべきだと思ったが、臨時大総統になったのは孫文だった。孫文は袁世凱との取引をしているらしかった。内田良平が葛生能久を派遣してそれは危ないと警告に行かせたのが、遅かった。袁世凱は巻き返しをやってのけた。
 孫文は国民党をつくって反撃を開始した。軍事力による対決の決断だった。宋は法制力で革命を成就すべきだと考えていた。そんなななか、袁世凱は国民党切り崩しのキーパーソンに宋がいるとみて、刺客を放ち、北京行特別急行列車に乗るため改札口に急いでいたところを、狙撃された。32歳の挫折だった。

宋教仁の遺体

【参考】『宋教仁の日記』(同朋社出版)、松本英紀『宋教仁の研究』(晃洋書房)、片倉芳和『宋教仁研究』(清流出版)

 ◆ビハリ・ボース◆(インド 1886~1945)

1910年代のインドを代表する過激な独立運動の指導者。新宿・中村屋に身を隠し、アジア主義のオピニオン・リーダーとして、極東の地からインドの独立を画策・指導した。日本のインドカレーの地。

 御存知、頭山満と新宿中村屋の相馬愛蔵によって匿われ、相馬の娘の俊子と結婚して日本に帰化したインド独立運動家のビハリ・ボース(ラース・ビハリー・ボース)である。1912年、新首都になったデリーに着任のためやってきた総督に爆弾を投げ付け、さらに1915年のラホールでの反乱未遂事件で追われ、日本に潜伏することになった。それからはずっと日本にいてインド独立運動にかかわった。日本のアジア主義や大アジア主義を語るに、最も象徴的な人物であろう。カレーライスの考案者でもある。
 イギリス植民地下のインド・ベンガルで生まれ、政府の役人であった父が単身赴任していたので母の手で育った。シャンデンナガル(チャンダンナガル)とコルカタ(カルカッタ)の学校で学んだ。15歳のとき1857年のインド大反乱について書いた『サラット・チャンドラ』を読んで、イギリスに対する敵愾心を強くもった。1906年に森林研究所の化学部門に勤務して爆弾製造をおぼえた。予科にはできるだけインド各地をまわるようにした。
 1911年、独立運動の指導者の一人モーティ・ローイと出会い、ローイの師のオーロビンド・ゴーシュの思想の洗礼をうけた。インドの伝統思想にめざめたのだ。デラドゥーンでベンガルとパンジャブの活動者たちが交わっているのを見て、その両地域の民族運動家の橋渡しをしようと決めた。革命のためのネットワーカーになり、そこに合流してきたガダル党員のヘーランパ・ラール・グプタと同志の仲になった。ガダル党とはアメリカ西海岸に留学したインド人や亡命インド人が結成した独立運動支援組織のことである。
 ボースはローイとグプタとともに直接行動に出ることを決めた。1912年、デリーの総督として着任してきたハーディング卿が駅から飾りのついた象に乗り、新総督府に向かって進んでいたとき、ボースが爆弾を投げ付けた。負傷におわった。変装して逃走を続けたが、鞄をあずけていた同志のアボットが逮捕され、デリー事件の主犯であることがばれた。それでも逃げ切っていたのだが、1915年にラホールで反乱をおこそうとした計画が露呈して、未遂のまま4000人が検挙されてしまった。ボースがインドにいることは不可能だった。変装してグプタとともに日本に逃げた。
 まず東京の孫文のところを訪れ、孫文が宮崎滔天を紹介し、滔天が頭山に引き合わせ、内田良平・大川周明・葛生能久・佃信夫らと知り合った。なかで葛生と気があった。イギリスはボースとグプタの日本退去を要請してきた。政府もやむなく5日以内の退去を通達したが、二人は新聞界の有力者の黒岩周六や石川半山に不当性を訴えたため、新聞各紙が事件を報じて政府の対応を批判した。国民党の犬養毅、政友会の床次竹二郎らは命令撤回を石井菊次郎外相に勧告したが、もはや撤回はむつかしい。
 退去決定の前日、新宿中村屋を常連の中村粥がぶらりと訪れた。中村進午の兄で、かつて二六新報の編集長をしていた。話題がボースの強制退去のことになったとき、相馬愛蔵が「かえって私のような者のところなら、どうにか匿えるんじゃないでしょうか」と言った。中村はすぐに佃信夫に伝え、佃が頭山に知らせ、ここに頭山と相馬が打ち合わせてボースを中村屋のアトリエに匿うことが決まった。グプタは大川周明宅からアメリカに逃げることにした。
 その後、政府はインド人亡命者に対する退去命令を撤回した。これでボースは中村屋を出て麻布新竜土町に移った。いまの乃木坂あたりだ。移転記念の会合に黒光は娘の俊子を連れていった。ボースの外部との連絡役は葛生がやっていたのだが、そのほかの用事は俊子に頼むようになり、二人は結ばれた。頭山邸で結婚式がおこなわれた。1920年8月、長男が生まれ、頭山が正秀と命名した。長女の哲子も生まれた。ボースは日本国籍をとる。けれども俊子は肺炎をこじらせて28歳の若さで死んだ。
 日本語が堪能になってきたボースは、満川亀二郎・渥美勝・中谷武世らと各地でアジア解放を訴えるようになった。そのとき必ず西洋の物質偏重文化を批判し、インドも日本も「神性」を重んじて、文明の転換をめざすべきだと付け加えた。1935年には国際精神文化大学を設立した。

ボースを囲む日本の支援者たち(1916年4月)
「ラス・ビハリ・ボース氏謝恩の会」(1915年)
テーブルの向こう側中央に頭山満、その後ろにボース、両者の手前に犬養毅。

 1941年12月、日本が真珠湾を攻撃し、対米戦争が始まった。翌年、東條英機はインド独立支援を打ち出した。ボースは喜んだ。3月にボースの激励会が開かれた。その2カ月後、バンコクでインド独立連盟が設立され、ボースが総裁に就いた。しかしインドではボースは日本の傀儡だとみなされた。インド国民軍を創設したモハン・シン大尉は日本軍との対決姿勢を打ち出した。ボースは板挟みとなり疲労困憊する。1944年10月、頭山が亡くなった。ボースはそれを知ってますます衰え、翌1月20日、脳溢血で不帰の人となった。
 【参考】ビハリ・ボース口述『独立の闘争』(昭和書房)、ボース『革命のインド』(書肆心水)、相馬黒光『ラス・ビハリ・ボース覚書』(『アジア主義』所収・筑摩書房)、相馬黒光・安雄『アジアのめざめ』(東西文明社)、相沢源七『相馬黒光と中村屋サロン』(宝文堂)、中島岳志『中村屋のボース』(白水社)、ボース・中谷武世『革命亜細亜の展望』(万里閣書房)

 ◆マヘンドラ・プラタップ◆(インド・アフガニスタン 1886~1979)

インド独立運動家であり、独立は国会議員になった。東京裁判に関して「連合国は日本に対してこそ賠償を払うべきだ」と逆賠償論を提唱し、戦勝国を非難した。

 インドの生地ヴリンダーヴァンの藩主の子として生まれ、何不自由のないエリート暮らしをし、夫婦で世界を漫遊もしていたのだが、1908年秋、突如として地位と富に甘んじて生きることに疑問と寂寞を感じ、インド民族のために動いてみようと決断した。そこで学校や農民向け銀行を設立したり、新聞を発行したりしてみたのだが、28歳のときに第一次世界大戦の勃発がインド独立のチャンスだと判断すると、妻子と別れてスイスに旅立ち、その後なんと32年にわたって海外独行に身を呈した。一人民間外交だった。
 スイスのセネヴァからドイツへ、皇帝ウィルヘルム2世にインド独立の構想を語り、アフガニスタンに入った。アフガニスタンが参戦すればインドの反英運動が高まるとみたのである。国王ハビブラーは参戦を渋ったが、第3王子のアマヌラーは関心をもち、インド臨時政府をたててその大統領になった。しかし対英宣戦には応じなかった。
 1918年、プラタッブはロシアでトロツキー(130夜)と、翌年はレーニン(104夜)と会見、ロシア革命が何たるものかを実感した。大戦が終結するとアフガニスタンは独立を承認され、プラタッブは王室顧問を引き受けた。1922年、日本に飛んだ。さっそくビハリ・ボースと面会し、猶存社による歓迎会に出席、復興亜細亜講演会にはボースとともに演壇に立った。その気骨は日本の興亜陣営からは「アフガニスタンの高山彦九郎」と称された。
 1929年、ベルリンで英文月刊誌「世界連邦」を創刊すると、プラタッブはしだいに夢想をふくらませていった。中野正剛、全亜細亜会議の今里準太郎らとは欧米主導を砕くためのアジア義勇軍を結成しようといった計画も練った。こういうプラタッブに大本教の出口王仁三郎が興味をもった。二人は出会い、互いにアジアの神々の力を確信しあったという。

頭山満(左)とプラタップ(京橋の中華料理店にて)

 こうしたプラタッブの途方もない動きに、日本の参謀本部が警戒するようになり、東京を離れるように仕向けた。やむなく小平に引っ越すのだが、そこでも400坪の土地を取得して世界連邦日本支部の看板を上げた。まったくもって「退却できない男」なのである。1946年、30年ぶりにインドに帰国した。1952年にプラタッブを訪れた中村元は「時代を先駆けた人」としてその横顔を報告した。
 【参考】マヘンドラ・プラタッブ『愛の宗教・慈悲の言葉』(建設社)、A・M・ナイル『知られざるインド独立闘争』(風濤社)、中村元『太平洋共同体・その構想と現実』(原書房)、中谷武世『昭和動乱期の回想』(泰流社)

 ◆マハンマド・クルバンガリー◆(トルコ・ロシア 1890~1972)

ロシア出身のバシキール人政治指導者。ロシア革命時に白軍と結んで赤軍に抵抗した後、日本に亡命。日本におけるムスリムコミュニティの指導者として活躍し、東京モスクの設立にも尽力したことで知られる。
イランとツランの地図
ガージャール朝時代にアドルフ・シュティーラーにより描かれている。

 「トゥラニズム」(Turanism)という奇妙な民族用語がある。ツラニズムとも表記される。ペルシア語の中央アジアを意味するトゥラン(ツラン)を広くつかって、汎スラブ主義・汎イラン主義・汎トルコ主義などを奉じる民族主義的イデオロギーのことをいう。フィンランド言語学からの提案だった。宗教学のマックス・ミュラーなども同調していた。人類学で広く認められているのではないが、いっとき囂(かまびす)しいときがあった。
 ウラル・アルタイ系の民族グループを総称する狙いがあったようだが、そのうちフィン人、ハンガリー人、タタール人、モンゴル人、朝鮮人、日本人も含む見方も出できて、これではユーラシア人全部を覆いそうになった。ツゥラン学者のエンジア・ゴカルプはテュルク系(トルコ系)に限定する見方を示し、コーカソシドとモンゴロイドの混血民族のありかたに「芯」をもたらそうとした。
 プッチーニの『トゥーランドット』はカルロ・ゴッツィの原作をもとにしたオペラだが、どこかにツラニズムが流れる。そういえば、大沼哲の『ツラン大行進曲』をユーチューブで聴いたことがある。
 さて、第一次世界大戦で敗戦したオスマン帝国は解体、パリ講和会議で領土の西をギリシアに、東をアルメニアに、南東部をクルド人に割譲し、首都イスタンブールを国際管理にするというものだった。この仕打ちに対して1920年にアンカラで招集された大国民会議は、ガリポリの戦いで活躍したムスタファ・ケマルを指導者として祖国回復運動を展開していった。トルコ革命である。
 その成果は1923年のローザンヌ条約となり、エーゲ海島嶼をギリシアに渡し、トルコ領内のキリスト教徒とギリシア領内のイスラム教徒を交換するという条件を獲得して、トルコ共和国の樹立にいたった。問題は南下政策をとりつづけるロシア(ソ連)による共産化の波をどうはねのけるかだった。
 ウラル山地の東の寒村でイマーム(イスラム礼拝の指導者)の家に生まれたクルバンガリーには、その生まれからしてタタール人の血とトゥラニズムが脈動していた。育った言語はバシキール語である。しかし、時代は20世紀。それにクルバンガリーは熱心なムスリムだった。1916年、26歳でペトログラードのイスラム管長となった。ただそこで、当時の民族独立運動が民族解放や民族自決を訴えても、共産党支配が及ぶ解放や自決になりそうであることに気が付いた。むしろ反革命軍(白軍)に所属するほうが、きっと自分の生き方にはあっていると感じる。
 反革命軍は革命軍(赤軍)の攻勢でしだいにシベリアのほうへ追いやられた。クルバンガリーもそこにいた。満州国境付近で、シベリア出兵でチタを占領していた日本軍と出会い、士官と意気投合した。1920年(大正9)、日本を訪れた。帝政ロシア期の最後の大使クルペンスキーに表敬訪問したところ、日露協会の後藤新平ゆ大隈重信を紹介され、陸鞨南の新聞「日本及日本人」の記者だった五百木良三、満鉄の嶋野三郎らと親しくなった。
 当時の日本はイスラームへの関心が高まっていた。日露戦争時の陸軍ロシア語通訳者でもあった須田正継はバイカル湖付近でトルコ・タタール系ムスリムに接触した体験からイスラーム研究を本格化していたし、田中逸平はすでに聖地メッカを訪れていたし、大川周明は『コーラン』(クルアーン)に興味をもっていた。文明史を背負っていそうなクルバンガリーに注目が集まり、興亜派は満州調査の力添えを期待した。
 上野精養軒で大亜細亜協会の発会式がおこなわれたとき、ツラン会亜細亜本部が発足した。ハンガリーのバラシン・バログ・ベネデクが白色人種の包囲網を突破するにはトゥラニズムによる総同盟が必要であると説いたためらしく、ここにクルバンガリーはツラン民族運動と大アジア主義をつなぐブリッジともくされたのである。しかし本人は日本にイスラーム組織を立ち上げることに熱心で、田中逸平らとともに東京回教団を旗揚げし、海外のムスリムに対しては雑誌「ヤニ・ヤポン・モフビリー」(新日本事情)を発刊したり、『コーラン』の翻訳に血からを注いだ。翻訳完成のときは頭山満・井上哲次郎・大竹貫一、文部省の下村寿一宗教局長が参列した。

前列左から五百木良三、犬養毅、頭山満、古島一雄。五列左から嶋野三郎、クルバンガリー、在神戸回教僧正シヤムグノーヒウ、足羽清実。

 1936年には代々木にモスクを建てることになった。山下汽船の山下亀三郎が土地を提供し、森村財閥の森村市左衛門や三菱銀行頭取の瀬下清らが寄付をした。森村は今日のノリタケの創業者である。翌年モスクは完成、その翌年には井上清純・林銑十郎・頭山・小笠原長生らの提唱で大日本回教協会も設立することになった。ただ、このようなプロセスでクルバンガリーの活動は、亡命タタール日としおぼしいアヤズ・イスハキから疑問が出て、活動が分裂気味になることもふえていた。イスハキはカザン系で、のちに回教研究所を設立する大久保幸次や有賀文八郎らが支持した。
 かくしてクルバンガリーのその後はさまざまな妨害が入ることになり、モスク開堂式の一週間前の1938年5月、スパイ容疑で逮捕されてしまうのである。国外退去が命じられ、大連に移された。いまなおクルバンガリーについは謎が多く、適確なプロフィールが綴れない。
【参考】新井政美『トルコ近現代史』(みすず書房)、小村不二男『日本イスラーム史』()、今岡十一郎『ツラン民族圏』(竜吟社)、野副重次『ツラン民族運動と日本の新使命』(日本公論社)、海野弘『陰謀と幻想の大ジア』(平凡社)、白柳秀湖『東洋民族論』(千倉書房)、須山卓『亜細亜民族の研究』(日本公論社)、佐々木良昭『これから50年、世界はトルコを中心に回る』(プレジデント社)

 ◆ベニグノ・ラモス◆(フィリピン 1893~1945)

マルトク
インドの独立運動家、インド国民会議派議長自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。民族的出自はベンガル人。インド独立に対する情熱や人柄によって東條英機や河辺正三を魅了した。
マハトマ・ガンディー(左)とボース(1938年)

 生涯を「ネタジ」(ネタージ=指導者)としてインド独立と反英に徹した。そのためなら誰とでも組むマキャベリストとも言われた。日本軍がビルマ侵攻からインドに迫っていったとき、インド側で日本と組んで共にイギリスと戦おうとしたせいである。ボースは国民会議左派で、長期にわたったイギリスの民地主義を撤廃するには日本の力を借りるほうが有効だと判断したのだった。そこでインド国民軍を組織、仮政府をつくって首班ともなった。インパール作戦では日本軍とともにイギリス軍と闘った。
 マキャベリストなのだろうか。そうでもあろうが、アジア主義の動向では、それはまさに誰もが模索していたことだった。
 スバス・チヤンドラ・ボースは西ベンガルのコルカタで、カースト最上層のバラモン一族の弁護士の6男として育った。中学校校長の影響で宗教活動と社会奉仕をつなげる仕事に関心をもち、大学ではスワミ・ヴィヴェーカーナンダの教えに傾倒した。ヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナの後継者で、シャンカラ系統の古代ヴェーダンダ哲学(不二一元論)を踏襲して、当時のヒンドゥー教改革運動の頂点にいた。社会活動にも積極的で、ネオ・ヒンドゥイズムともネオ・ヴェーダンダとも呼ばれ、総じては「ベンガル・ルネサンス」の中心人物になっていた。岡倉天心も会いに出向いている。
 ケンブリッジ大学で学び、インド高等文官の試験に合格した。そのころ著名な弁護士チタ・ランジャン・ダスがベンガル分割統治に抗議して、ガンジーとともに不服従運動を提唱、全財産を運動資金に投じた。このダスの決断に心を揺さぶられたボースは、文官登用書類へのサインを拒否し、インド独立運動に身を捧げることにした。ダスもその熱意を買って国民会議ベンガル支部の広報主任に抜擢した。
 1921年冬、イギリス皇太子がインドを訪れた。国民会議の義勇隊はボイコットを展開、皇太子は歓待をうけることなく無人の町を視察した。義勇隊の隊長だったボースは即刻逮捕され6カ月の禁固刑を申し渡された。一方、ダスはスワラージ党をおこし、コルカタ市長になり、獄中のボースが主席行政官に就かせた。この動きに警戒したイギリス当局はスワラージ運動を弾圧すると、ボースをビルマのマンダレー監獄に移した。劣悪な環境に耐えていたとき、ダスが急死した。ボースは激しい獄中闘争を始め、2週間のハンストを決行した。ボースは生涯11回の投獄を経験するのだが、そのたび不屈の反撃にとりくんだ。
 そんなボースは非暴力主義のガンジーとは異なる活動方針をとるようになっていく。ガンジーは会議派の分裂を避けるためにボースを議長に推すのだが、1938年の年次大会で対立は表面化した。ボースは議長を辞任、ドイツがパリを陥落した情勢を見て、ここはイギリスの力が弱まる時だろうからと、ベルリンに潜入、対イギリス作戦を練ろうとするのだが、ドイツのインドへの関心は薄かった。こうして日本との共闘に期待が向いていった。
 1941年10月、参謀本部はボースの動向と人脈をさぐるように、ドイツ駐在の武官補佐官の山本敏に調査を命じた。山本は大鳥浩大使とボースに会い、首実検をする。すばらしい人格と闘志の持ち主であることを知り、以降の相互協力を約束しあった。来日したボースは頭山をはじめ、多くの要人と交流し、ビハリ・ボースもチャンドラ・ボースに次世代の指導者(ネタジ)を期待した。
 ちょうどその前後、大本営参謀の藤原岩市陸軍少佐はマレー半島でのイギリス軍に駆り出されたインド兵の投降工作をするべく「F機関」(藤原機関)を用意していた。大川周明が所長をしていた東亜経済調査局付属研究所(大川塾)の出身者が多く加わった。
 日本軍はマレー半島を南下中だった。そこにイギリス軍の一大隊が孤立しているという情報が入った。大隊は大隊長をのぞいてすべてインド兵だった。藤原は単身のりこむと200名の投降を決めさせた。その中の一人ミハン・シン大尉は1941年12月にインド国民軍を主導した。F機関は陸軍大佐の岩畔豪雄を機関長とする「岩畔機関」に、さらに2年後には山本敏大佐による「光機関」に発展し、規模を大きくしていった。
 これで日本軍とボースの考えるインド軍とが大同できるはずだったのだが、事態はそう容易には進まない。東條英機が賛成しなかったことがネックのようだが、実際には共に戦うことになったインパール作戦が失敗したことが大きい。1945年8月、サイゴンで日本の敗戦を知ったボースはそれでもインド独立運動の継続をソ連との交渉に求め、寺内寿一総司令官に飛行機の手配を要請した。参謀本部は拒否しろと言ってきたが、寺内は「最後の望みを聞いてやろう」と手配をした。飛行機はサイゴンを飛び立ち、ツーラン(ダナン)に着き、翌日は台北松山飛行場に到着、次に飛び立とうとして墜落炎上した。
 ボースの意欲は成就しなかったのである。22年後の1968年、1943年10月にボースがインド仮政府を樹立して英米に宣戦布告をしたのを記念して、福岡の刀匠の磯野七平がボースに贈った軍刀が発見された。その箱には頭山が「破邪顕正」と認(したた)めていた。
 【参考】ボース読本『ネタジと日本人』(スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー)、長崎暢子『インド独立』(朝日新聞社)、森本達雄『インド独立史』(中公新書)、坪内隆彦『岡倉天心の思想探訪』(勁草書房)、藤原岩市『留魂記』(振学出版)、山田勲『白い航跡』(文芸社)、『南・F機関関係者談話記録』(アジア経済研究所)

◆プレーク・ピブーンソンクラーム◆(タイ1897〜1964)

タイの政治家で、首相を2度務めた。立憲革命時代から第二次世界大戦をまたいでタイの政治に大きな影響力を持ち続け、「永年宰相」と称された。
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右:バンコクの選挙夕食パーティーでスピーチするプレーク・ピブーンソンクラーム(1957年)

 タイはアジア諸国のなかで、日本とともに近世近代を通してなんとか自立国家を維持できた国である。けれども欧米の経済的支配は尋常ではなかった。タイの場合、それは石油にあらわれた。ロイヤルダッチ・シェル系のアジア石油とロックフェラー系のスタンダード石油がタイの石油利権を握っていた。これに石油統制法をもって闘いを挑んだのが、首相着任早々のプレーク・ピブーンソンクラームだった。タイ経済が英米支配に冒されていることを打開したかった。
 ピブーンソンクラームは日本ではしばしばピブーンと略記されるが、これは本名(欽錫名)の一部だから、こんなふうに切り離せない。ただし長いのでここでは本書同様にピブーンとしたままにする。
 ピプーンは陸軍士官学校や参謀学校の出身で、1924年から3年間のフランス留学でいろいろの空気を吸った。27年にカルチェラタンの小路ソムラームの店で、ピブーン、プリーディー、プラユーンら7人の同志が結束を誓った。帰国後、人民党が誕生し、1932年に立憲革命のシナリオを書き、これを決行。一部親王が反対クーデターをおこしたが、王族・軍隊・警察要人の身柄を拘束して、ラーマ7世国王に立憲君主制の受諾を了承させ、翌日、第1回人民議会を招集した。国王とのパイプのため穏健派のマノーが初代首相になった。
 タイには国王もいて、国体もある。そのうえでチャート(民族)が成り立ってきた。ピブーンはチャートを重視し、それが人民主権であることをつねに留意した。1939年6月24日に民主体制を確立したことをもって「チャートの日」と定めた。このとき国名も「シャム」から「タイ」に変わった。同時に、ピブーンは「ラッタニヨム」(国家や国民信条の基準)を制定した。タイ人はタイ語を尊重し、タイ語の使用に誇りをもつと定めたのだ。実はピブーンは英米の経済支配とともに華僑による経済文化の専横も一掃したかったのである。
 1939年9月、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まると、タイは中立を宣言した。翌年6月、英仏日それぞれと相互不可侵条約を締結、これでおさまるかと見えたのだが、わずか半月後、フランスがドイツに敗れ、9月に日独伊三国同盟が調印された。さあ、ここでどうするか。ピブーンはイギリスと日本を両天秤にかけるかどうか、迷っていた。イギリスの極東代表ダブ・クーパーがシンガポールに入った前後から、英米のタイ抱き込み政策が巧妙になってきた。
 1941年、日本は対米英開戦に踏み切り、真珠湾攻撃と同時にビルマ・マレー攻略のためタイ領土内に進軍した。日本軍の通過を認めるかどうか、ピブーンは興奮しながらも少し迷って坪上貞二大使との交渉を受けた。30分間の猶予しかなかった。結局日本の圧力に屈した。こうしてタイは対日協力に舵をとり、同盟条約を結んだ。42年1月25日、ピブーンは米英両国に宣戦布告する。親日路線はルアン・シンが仕切った。
 ピブーンは日本と組みたいわけではなかった。だから戦時中も日本にあからさまな協力をしなかった。けれども戦争協力はした。そのため戦後もしばらく慎重なままでいたのだが、1947年の郡部クーデターを背景にふたたび政権に復帰、親米反共路線のタイづくりに徹した。1954年にはSEATO(東南アジア条約機構)に加わった。ただ周辺がしだいに金権体質になって、政党も乱立、政情は安定しなくなった。1957年サリット将軍中心にクーデターがおこり、ピブーンははじめアメリカに、のちに日本に亡命した。このときピブーンを導いたのは大東亜戦争期のタイ駐屯軍の司令官だった中村明人だった。ピブーンは1964年、相模原で亡くなった。
 【参考】村嶋英治『独立タイ王国の立憲革命』(岩波書店・現代アジアの肖像9)、中村明人『ほとけの司令官』(日本週報社)、末廣昭『タイ:解発と民主主義』(岩波新書)

 ◆スカルノ=ブン・カルノ◆(インドネシア 1901~1970)

インドネシア建国の父。第二次大戦後、独立を宣言して対オランダ武力闘争を指導、1949年共和国初代大統領に就任。民族主義・宗教・共産主義を一体とするナサコム体制を提唱。反共勢力の台頭で1967年に解任された。

 芝に萬年山青松寺がある。2、3度散策し、住職と言葉を交わしたりした。山門を入ってしばらくすると大きな石碑がある。「市来龍夫君と吉住留五郎君へ。独立は一民族のものならず、全人類のものなり。一九五八年二月一五日 東京にて スカルノ」とある。国父、建国の父、ブン・カルノ(カルノ兄さん)と親しまれ、第三世界のリーダーとしても、また独裁者としてカリスマとして君臨したスカルノらしい碑だ。
 市来と吉住はともに若くしてジャワに渡り、市来は1936年からジャカルタの日蘭所業新聞に勤務したあと陸軍の宣伝班としてジャワ派遣軍に加わり戦死した。吉住はやはり新聞記者として市来と知り合い、海軍武官府で民族主義運動工作に従事して戦病死した。
 スカルノの日本贔屓は1942年7月に今村均中将のことを知ってからのことであるらしい。今村率いるジャワ派遣軍第16軍が敵前上陸し、2倍以上の兵力を擁するオランダ軍(蘭印連合軍)をわずか9日で降伏させた話は、当時41歳だったスカルノを感動させたようだ。のちに「将軍今村は本物のサムライだった」と述べた。実際の今村は「日本とインドネシアの共存共栄「「同一家族・同胞主義」を声高にしたため解任され、ラバウル作戦やガダルカナル撤退の式にまわされていた。
 スカルノはきわめて独創的な政治家だった。東ジャワのスラバヤでムスリムの父とヒンドゥ教徒の母のもとに生まれ、最初から宗教と民族の多様性を身につけていた。バンドン工科大学を卒業して技術者になったが、20歳のときにマルハエンという貧しい農民からインスピレーションを得て、のちに「マルハエ二ズム」と称した理想をもった。そこで1927年にはインドネシア国民同盟(のちに国民党)を結成、たちまち勢力を拡大してリーダーとして知られた。
 当時の宗主国のオランダはそうしたスカルノの力を嫌い、29年に逮捕、2年間の獄中生活を強いた。出所すると国民党は崩れていたので、インドネシア党(パルティンド)に合流するのだが、たちまち頭角をあらわし党首となった。カリスマ性が高かったのだろう。オランダ政府はまたまた理由をつけて投獄し、スマトラ島ベンクルに流刑させた。それが日本軍のオランダ領インド侵攻まで続いたのである。
 こうしてスカルノは着々と独立の準備をする。1945年8月の独立宣言には「パンチャシラ」(5つの柱)とよばれた憲法前文が提示された。そこには東洋精神にもとづく「ゴトン・ロヨン」(gotong royong)すなわち相互扶助の文明観と、かのマルハエニズム(自国伝統技術の尊重)が生きていた。
 1955年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)はスカルノの輝かしい国際デビューだった。インドのネルー、中国の周恩来、エジプトのナセル、ガーナのエンクルマ、ビルマのウー・ヌーらが顔を揃えた。スカルノは第三世界のリーダーとなったのである。ぼくの父はこの顔触れをとても自慢していた。ぼくも長らく政治家といえばこの顔触れが真っ先に浮かぶようになっていた(それにくらべるとドゴールやアイゼンハウワーやケネディは苦手だった)。
 その後、スカルノは「指導された民主主義」を打ち出し、民族主義(nasional)、宗教(agama)、共産主義(Komunism)を合体させた「ナサコム」を提案、政治団体の大同団結を訴えた。これらは反対派からは「左寄り」あるいは「過度の中国寄り」とみなされたが、いっこうに平気だった。マレーシアがイギリス主導の秩序形成に走りはじめたのも批判し、そのマレーシアが安保理の非常任理事国に選出されると、「これは植民地主義の第二の工作だ」と言って、1965年1月にさっさと国連を脱退してしまった。
 そのあとも独創をきわめた。第二の国連開設を視野に新興国会議構想をぶち上げ、世界銀行とJMF(国際通貨基金)からの脱退も通告し、「文化におけるアメリカ主義を粉砕せよ」と叫んで、「ジャカルタ-北京-プノンペン-ハノイ-平壌」という反帝国主義的な枢軸の構築を提唱したのである。
 これではイギリスもアメリカも黙ってしいられない。マクミラン、ケネディ、およびCIAはスカルノ潰しを画策した。本書が紹介しているポール・ラシュマーとジェームズ・オリバーの『イギリスの秘密宣伝工作戦争』によると、イギリス外務省の宣伝工作員ノーマン・レダウェイがイギリス外務省・MI6・アメリカ国務省・CIAで結成された混成チームによって、あらゆるスカルノ失脚を画策したという。折から中国は核実験を成功させ、毛沢東はスカルノにインドネシアの核保有を援助するとスピーチした数時間後の1965年9月30日、スハルトを中心とした右派軍人のクーデターによって、スカルノは一挙にいっさいを失ってしまうのである。この「9月30日事件」のことはいまだに肝腎なところが謎に包まれている。
 かくしてスカルノは失意のまま生涯を了える。艶福家ではあった。3人の大統領夫人と6人の夫人がいた。第3夫人がラトナ・サリ・デヴィで、日本で見初めた根本七保子、つまりデヴィ夫人である。

インドネシアの国章、ガルーダ・パンチャシラ
神鳥ガルーダが抱える盾に描かれた5つのエンブレムは、パンチャシラの5原則を示す。
デヴィ・スカルノとスカルノ

 【参考】スカルノ『わが革命の再発見』(理論社)、白石隆『スカルノとスハルト』(岩波書店)、後藤乾一・山崎巧『スカルノ:インドネシア建国の父と日本』(吉川弘文館)、土屋健治『英雄たちのアジア』(JICC出版局)、板垣與一『アジアとの対話』(論創社)、永積昭『インドネシア民族意識の形成』(東京大学出版会)、土屋健治『インドネシア民族主義研究』(創文社)

 ◆モハマッド・ハッタ◆(インドネシア 1902~1980)

右:オランダ軍によりバンガ島に拉致されるスカルノとハッタ(1948年)
インドネシア共和国の初代副大統領。スカルノとともに、インドネシアの民族主義運動、独立運動において主導的役割を果たす。スカルノとは出自、性格、信条においてきわめて対照的であり、鋭い批判者でもあった。

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 西スマトラのブキティンギには世界最大の母系社会を形成するミナンカバウ族がいる。ハッタはその出身だ。そのためか、初代副大統領としてスカルノと組んでインドネシアの戦後社会を支えたのだが、だから1985年に開港したジャカルタ郊外のタングランの国際空港はスカルノハッタ空港と名付けられたのだが、さまざまな点でスカルノには批判的だった。
 幼児のころからコーランに親しみ、首都バタヴィア(現ジャカルタ)のオランダ語教育の中学に学び、商業高校をへてオランダ・ロッテルダム商科大学で実務を習得した。大学では先住民留学生の学生団体インドネシア協会に所属して、そこにいたタン・マラッカやスマウンらがコミュニズムに傾倒していたこともあって、しだいに政治運動に関心をもった。
 帰国後の1926年、ハッタはインドネシア協会の会長となり、パリの東方文化協会などと連携しつつ、アジア民族連合の構想をもつようになった。そんなときコミュニストたちがジャワで蜂起して失敗、ハッタはスマウンとともに共産系の民族独立運動のイニシアティブを協会に委譲させることをしくむのだが、これはソ連のコミンテルンから批判された。
 こんなふうにハッタの政治運動は多分に「赤寄り」だったのだが、そこにオランダからの締め付けや逮捕や拘留があったため、しだいに反帝ヨーロッパ的で民族主義的な政治活動に惹かれるようになり、そこでスカルノの台頭と出会うのである。日本との交流は1933年の来日の折、下中弥三郎の大亜細亜協会と交わり、その事務局長の中谷武世に兄事した。ビハリ・ボースとも会い、ボースの奨めもあって日本インドネシア協会も誕生した。ボースが議長、ハッタが会長、下中が副会長になった。
 そんなハッタを日本では「蘭印のガンジー」と呼んでいた。しかし、日本とインドネシアの関係はなかなか微妙なままである。オランダが絡んでいるからだ。日本にとってのオランダは江戸時代このかたの友好国で、インドネシアはアジア解放を軍事的になしとげたい対象のひとつなのである。ハッタはその狭間で大胆な活動ができなくなっていく。そこにタムリン事件がおこった。反蘭親日のタムリンが変死した。もはやハッタがあからさまな親日の立場をとることは危険になってきたのだ。実際にも本書にはハッタ暗殺の陰謀がいくつかあったことが示されている。
 独立後のインドネシアはスカルノとの二人三脚になるのだが、最初にも述べたようにそこには溝や隙間があった。いま、ハッタを語る日本人はほとんどいないままである。

スカルノ・ハッタ国際空港

 【参考】モハマッド・ハッタ『ハッタ回想録』(めこん)、アフマッド・スバルジョ『インドネシアの独立と革命』(龍渓書舎)、谷川栄彦『東南アジア民族解放運動史』(勁草書房)、深田祐介『黎明の世紀』(文芸春秋)

 ◆アウン・サン◆(ビルマ 1915~1947)

アウン・サンと「三十人の志士」
ビルマ(のちのミャンマー)の独立運動家。「ビルマ建国の父」として死後も敬愛されている。ミャンマー民主化運動を指導し、現在は国家顧問として実質的な国家指導者の地位にあるアウン・サン・スーチーは長女。

 わずか32歳の生涯ながら「ビルマ建国の父」と慕われたアウン・サンと日本との関係は、一方で異様に熱く、他方で何かが埋めがたく冷たい。そこに日本の大アジア主義の限界と矛盾が見える。オッタマ時代とは状況が異なっている。
 アウン・サンは独立運動家の父のもと、8歳でナッマウの寺院学校に入り、13歳でマグウェーの民族学校でビルマ史やビルマ文学に親しんだ。1932年、名門ラングーン大学に進むと、英文学・政治学・近代史を専攻し、ギリシア哲学とマルクス(789夜)を愛読した。かなりの読書家だったようだ。その一方で学生運動にのめりこみ、1935年にビルマ統治法が制定されてビルマがインドから分離されると、全ビルマ学生同盟(ABSU)が結成され、民族主義運動のリーダー格になっていた。
 1938年、のちに首相となるウー・ヌーとともにタキン党に入党した。ラングーン大学で英語科の翻訳助手をしていたタキン・バ・タウンらが結成した民族主義団体である。タキン党は油田労働者のストライキを支援、デモ行進をもって反英闘争を盛り上げて、ついにビルマ政庁を包囲した。ただちに当局は一斉逮捕にのりだし、アウン・サンも検挙された。
 そのころ、日本はビルマに軍事的な関心をもっていた。中国の国民党のロジスティックス(物資輸送路)の「援蒋ルート」に、1939年1月にビルマ・ルートが開通したのだが、日本はこれをなんとしてでも遮断したかったのである。ビルマに入っていた海軍予備役の国分正三大尉、ラングーン在住の鈴木司医師、日本山妙法寺の僧侶永井行慈、上海興亜院の杉井満、満鉄調査部の水谷伊那雄たちは、それぞれでビルマの民族主義者との接触を急いでいた。そのなかで、陸軍将校の鈴木啓司がタキン党のティン・マウンに接触できた。さっそく来日させて詳しい情報をとっていくと、アウン・サンらが同志のラミ・ヤンとともにアモイに潜伏しているらしい。鈴木は二人をひそかに日本に誘導した。1940年11月のことである。
 こうして秘密の大作戦が組み立てられていく。まずアウン・サンはつねに人目を忍ぶ拠点を浜名湖・館山・東京某所というふうに移動させられた。大本営はビルマ工作機関として「南機関」を発足させ、鈴木が機関長になった。陸軍海軍の精鋭、中野学校の出身者、民間人が選出され、極秘チームづくりが始まった。1941年2月、杉井満とアウン・サンは、将来のビルマ独立運動の中核となるべき志士30人を日本に脱出させて訓練させよという秘密命令をうけた。ビルマに戻ったサンたちは30人を募り、密かに3カ月をかけて日本に入っていった。そこには独立後に権力を握るネ・ウィンなどがいた。のちに「ビルマ三十人志士」と謳われた志士誕生の瞬間だった。
 志士たちは海南島の三亜にあった海軍基地の特別訓練所に入り、3班に分かれて苛酷な軍事訓練を受けた。極秘の開戦が間近に迫っていた。10月、志士たちは台湾の玉里に移った。12月8日、米英に対する戦線が布告され、第15軍がタイに進駐した。南機関がその下についた。アウン・サンと志士たちはビルマ独立義勇軍(BIA)をつくり、さらに参加者を募った。12月28日には義勇軍全員と義勇軍隊長となった鈴木啓司は「血盟の儀式」をした。鈴木は「ボ・モージョ」(雷帝)と称され、全員が戦闘を誓った。
 ところが、ここから歯車が狂っていくのである。義勇軍は後方支援ばかり、独立運動との連動がまったく語られない。モールメン地方自治のための臨時政府を樹立するという鈴木隊長の約束も反故にされた。アウン・サンは日本軍を疑いはじめた。鈴木は参謀副長の那須義雄と談判し、「かれらの独立を認めなければ日本とビルマの戦争になる」と警告したが、大本営からは梨の飛礫(つぶて)だった。志士たちも動揺し、不穏な空気が出てきた。鈴木はアウン・サンに「反乱をおこすなら、まず俺をころしからやれ」と諭し、南機関には「反乱がおきたらまずおまえたちが犠牲になれ。南機関が全員犠牲になれば軍の目もさめるだろう」と言いわたした。
 この鈴木の言動は参謀本部には厄介なものになった。1942年6月18日、南機関は解散させられ、鈴木は近衛師団司令部に転属させられた。7月、BIAも解散、2800名が選抜されてビルマ防衛軍(BDA)として再編成された。誰も納得していなかった。
 1943年8月、軍政が廃止されビルマの独立が宣言されたが、アウン・サンには本当の独立ではなかった。BDAはビルマ国民軍(BNA)となり、アウン・サンは国防大臣に就任したが、BNAが何をするのか日本軍はなんらの方針も示せなかった。アウン・サンはBNAが日本の傀儡ではないことを示す必要に迫られていた。
 1944年8月、ビルマ共産党、人民革命党、BNAは秘密会議をひらいて抗日統一戦線の発足を確認した。統一組織は「パサバラ」(反ファシスト人民自由連盟)と称され、アウン・サンが議長に就いた。45年3月、パサバラはラングーンで秘密幹部会をもって抗日一斉蜂起を決定した。このとき、三十人志士の一人だったミンオンが日本を裏切るのは恩義に欠けると自害した。アウン・サンは苦渋の選択だったが、蜂起は敢行され、日本人軍事顧問ら20人が殺された。ただ南機関の者たちには逃亡が黙認された。
 戦後、1947年1月、アウン・サンはついにイギリのアトリー首相に1年以内の完全独立を定めた協定書を調印するにまでいたった。だが7月に、アウン・サンは政敵ウー・ソーらによって5人の閣僚とともに暗殺された。ビルマが完全独立をしたのは1948年1月4日のことだった。長女のアウン・サン・スーチーが父の暗殺を知ったのは幼女のとき、それから政敵や軍事政権と対峙するには数十年がかかった。

アウン・サン一家(1947年:前列中央はアウン・サン・スーチー)

 【参考】根本敬『アウン・サン:封印された独立ビルマの夢』(岩波書店)、伊知地良雄『ビルマの大東亜戦争』(元就出版社)、遠藤順子『ビルマ独立に命をかけた男たち』(PHP研究所)、緑川巡『幻のビルマ独立始末記』(文芸書房)、野田毅『野田日記』(展転社)、アウン・サン・スーチー『ビルマからの手紙』(毎日新聞社)、『アウンサン・スーチー演説集』(みすず書房)

 ◆スハルト◆(インドネシア 1921~2008)

青年期のスハルト(右)
スカルノを退かし、二代目インドネシア大統領として30年にわたり大統領にとどまり、一貫して「開発」を掲げて独裁政治を展開した。ASEAN結成などを主導したが、長期政権による政治の腐敗を招いた。

 スカルノは経済よりも民族と国家の主権を重視したが、そのぶん経済成長を引き寄せられなかった。スハルトはリアル・ポリティックスを重視し、外交と経済成長を優先させた。スカルノが「独立の父」ならばスハルトは「開発の父」だった。
 中部ジャワのジョグジャカルタ近郊、バンドゥル県の小村に生まれ、8歳のときに姉夫婦に預けられて育った。スハルト(Soeharto)はこれで姓名をあらわしている。1934年に小学校を卒業して中学校に入ったものの、学資が続かない。父の友人のもとに手伝いに出た。18歳でやっと中学を出ても政府庶民銀行の行員見習いとなり、本格的な勉強も友達もできなかった。エリートの家系に生まれ育ったスカルノとは対照的に、スハルトは苦労も苦学もした。
 1940年、ようやく植民地軍に採用され、ゴンボンの兵学校で半年の訓練を受け、伍長として東ジャワの大隊に配属された。軍曹になると西ジャワに配属された。そこで事態が一変した。1941年12月に対米英開戦を断行した日本が翌年2月にはジャワ沖海戦に勝利して、インドネシアの占領を始めたのである。スハルトは日本軍部のもとで軍人をめざすことになる。
 43年1月、日本軍はタンゲラン青年道場をつくると特殊要員の訓練に入った。陸軍中野学校出身の柳川宗成中尉が指導にあたった。アジアを解放するためにインドネシアに来たが、独立は諸君がなしとげなければならない、けれどもまだ諸君には準備がないので日本軍が知っているかぎりのことを教える、会得して独立に役立ててほしいと言うと、「死ぬまでやる」を合言葉に、「正直であれ」「勇気をもて」「つねに前進せよ」をくりかえし訓話した。10月にはインドネシア人だけの軍隊設立をめざしてボゴールにジャワ防衛義勇軍の幹部錬成隊(PETA)が設けられた。スハルトはズルキフリ・ルビスとともに志願した。第4中隊に入った。
 指導は土屋競大尉が担当した。あるとき午前中の訓練に怠慢だった兵士が銃をもって直立不動で立たされた。訓練後に炎天下に立つのは苛酷だった。土屋がその兵士の隣りに行って立った。何も言わず1時間、土屋は立ち、午後の訓練の合図でその場を去った。これを凝視していたルビスもスハルトも感激したという。のちにスハルトが大統領となり、1968年3月に来日したとき、どうしても土屋さんに会いたいと言って、再会したという。同行していた夫人に「この方が私の先生だよ」と言った。2001年に公開された藤田紀夫監督の『ムルデカ』にこの土屋の姿が描かれた。
 日本敗戦直後、義勇軍は解散したが、その出身者はオランダとの独立戦争で主要な役割をはたした。1949年、スハルトはジョグジャカルタ奪回の指示を受けたスハルトは部隊を指揮して、わずか6時間で目的を達した。有名な「暁の攻撃」だ。このあとのスハルトは軍人の道をとんとん拍子に昇進し、独立後の軍政システムの構築の中核になっていった。

映画『ムルデカ 17805』予告
2001年に公開された日本の戦争映画。インドネシア独立戦争に関わった日本兵を描いている。

 【参考】吉村文成『スハルト「帝国」の崩壊』(めこん)、白石隆『スカルノとスハルト』(岩波書店)、土屋健治『インドネシア 思想の系譜』(勁草書房)、阿羅健一『ジャカルタ夜明け前』(勁草書房)、柳川宗成『陸軍諜報員 柳川宗成』(サンケイ新聞出版局)

◆マハティール・ビン・モハマド◆(マレーシア 1925~)

右:マハティール・ビン・モハマドと安倍晋三(2018年)
マレーシアの元首相。最長の22年間を務めている。開業医から政治家に転じ、欧米諸国ではなく、日本の経済成長を見習おうというルックイースト政策をはじめ、長期に及ぶ強力なリーダーシップにより、マレーシアの国力を飛躍的に増大させた。

 マハティールのアジア感度はそうとうに高い。70年代の日本の成長構造のしくみをよく見抜いていたし、そのころの著書『マレー・ジレンマ』(井村文化事業社)に書いてあるのだが、マラヤ=マレー創成期の苦悩の要因に目をそらさなかった。なによりイギリスやアメリカのアジア戦略の謀略性が東南アジアにとって「危険な助言」をもたらすことを警戒していた。だから逆に、あれほど斬新な「ルック・イースト」政策に徹していたにもかかわらず、結局はアメリカのじりじりした締め付けによって自在性を失っていった。中国の急速な資本主義転換と一帯一路主義も誤算であった。
 本書の著者は早くからマハティールに注目してじっくりインタヴューをし、その成果を含めて『アジア復権の希望 マハティール』(亜紀書房)をまとめ、その後も「月刊マレーシア」に「明日のアジア望見」を連載しているマハティール研究者でもある。ぼくが付け加えることはないが、概略を案内しておく。
 タイ国境沿いのクダ州アロースターに生まれた。当時のクダ州はイギリス支配下ではあったが植民地ではなかった。スルタンによる保護領だった。だからイギリスはその解体を推進しようとしていた。マハティールは何かが気に入らない。与党のUMNO(統一マレー人国民組織)のリーダーたちが青年期にイギリス留学を好んだのに対して、マハティールはずっと国内で学び、医学部から開業医になることを選んだ。十代のとき、日本軍がマレー駐在のイギリス軍を一撃で一掃したので、日本軍統治下のマレーで青春を迎えたのである。
 1964年に下院議員に当選すると、政治家としての手腕を発揮、閣僚、副首相をへて1981年7月に第4代の首相になった。すぐさま打ち出したのが有名な「ルック・イースト」政策である。ヨーロッパ主導の文明に翳りが落ちていること、とはいえアメリカの軍事力と新自由主義とポップカルチャーではアジアはままならないこと、また先頭を走りながらも失速しつつある日本を庇ってでもアジアを盛り上げていかないとまずいだろうこと、こうしたことが政策に反映したのだった。
 この政策にはイスラームの経済文化も反映した。1983年に無利子を原則としたイスラム銀行を設立、スクークというイスラム式の債券を流通させた。マレーシアのスクーク発行総額は世界の7割を占めた。貿易取引に金貨ディナールをもってきて米ドル依存からの脱出を図ったのも大胆な提唱だった。こうした構想にはイスラム経済派のシェイク・アブドルカディールやイスラム交易研究のライス・バディロらの理論家たちが関与した。
 こうした工夫もあって、マレーシアは1997年7月のタイ・バーツの通貨危機の波及をくいとめられた。IMFや世銀の甘言にも乗らない体質改善が稔りつつあったのだ。こうして2002年にクアランプールで開催された国際イスラム資本市場会議ではディナール構想によるアジェンダが発表され、世界の注目を浴びることになった。
 マハティールは敗戦から立ち直った日本に目をつけ、その高度成長の秘密から学んだものが大きかったようである。政権初期の外相だったガザリ・シャフィーも日本の社会経済文化に目を配り、ルック・イースト政策やEAEG(東アジア経済グループ)構想の実践を引き受けた。EAEGはその後EAEC(東アジア経済協議体)に発展したが、アメリカはこれを極度に警戒した。ロバート・スカラピーノは「白人立ち入り禁止の看板を掲げたようなものだ」と皮肉り、ブッシュ政権のベーカー国務長官は「太平洋に線を引く危険なシナリオで、日米分断につながる」と非難した。
 しかしマハティールは屈しなかった。それどころかアメリカの提唱するTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)にもNAFTA(北米自由貿易協定)にもそっぽを向いた。その一方で三男のムクリズを1981年に上智大学の経営管理工学科に送り込んだりもした。
 しかしその後、マハティールは日本がアメリカの顔色を伺いすぎるのに業を煮やして失望、「いま日本から学べるのは日本の失敗だけになった」と言った。その通りであろう。2003年に長期に及んだ政権から降りたが、2018年の選挙で復活、首相の座に返り咲いた。マレーシアのその後の低迷を見ていられなくなったのである。
 【参考】マハティール『マレー・ジレンマ』(井村文化事業社→勁草書房)、マハティール『日本再生・アジア再生』(たちばな出版)、マハティール『アジアから日本への伝言』(毎日新聞社)、マハティール『立ち上がれ日本人』(新潮新書)、マハティール&石原慎太郎『「NO」と言えるアジア』(光文社カッパブックス)、マハティール『ルック・イースト政策から30年』(日本経済新聞出版社)、坪内隆彦『アジア復権の希望 マハティール』(亜紀書房)、萩原宣之『ラーマンとマハティール』(現代アジアの肖像14・岩波書店)、林田裕章『マハティールのジレンマ』(中央公論新社)、鳥居高『マハティール政権下のマレーシア』(アジア経済研究所)、萩原宣之『マレーシア政治論:複合社会の政治力学』(弘文堂)

◆ラジャー・ダト・ノンチック◆(マレーシア1926~)

ラジャー・ダト・ノンチック
ラジャー・ダト・ノンチックの半生記を描いた『日本人よありがとう マレーシアはこうして独立した』 日本教育新聞社出版局 1989

ここにノンチックが選ばれたのは「南方特別留学生」がもたらした意味を述べておくためだったろうと思う。この制度は1943年に日本の南方総軍司令部が発令した「南方圏教育に関する方針」にもとづいたもので、東南アジアから留学生を集めて学習させて一人前の興亜思想の持ち主に育て、来たる各国独立のためのミドルリーダーになるようにしようというもの、ありていにいえば大東亜共栄圏を支える人材づくりをする制度だった。
 フィリピン、マレー、タイその他の東南アジアから101人が集まり、門司港に送りこまれると、東京で1年ほど日本語の習得をしたのち各地の大学や機関に送られて総合的学習に入り、その才能に応じてさらに次の研修に向かうというふうになっていた。セランゴール州のスルタンの家系に生まれたノンチックは、なぜか早くから日本の軍人訓練に学びたかったようで、この南方特別留学生にも早々に応募した。ノンチックは座間の陸軍士官学校まで進み、ここでのちにマラヤ三人組と謳われた友人たちと仕上げにかかったらしい。
 詳細は略するが、ノンチックらはその後のインドネシアによるマレー攻撃を回避するために動いたり、ASEAN誕生をコーマン、ラザク、マリクの裏側で支えつづけたりした。1981年以降は、日本企業との合弁会社十数社を立ち上げて、日本のマレーシアの橋梁を築いていった。
 【参考】山影進『ASEAN:シンボルからシステムへ』(東京大学出版会)、土生良樹『日本人よ ありがとう』(日本教育新聞社)

(図版構成:寺平賢司・西村俊克・穂積晴明)

⊕ アジア英雄伝―日本人なら知っておきたい25人の志士たち ⊕

∈ 著者:坪内隆彦
∈ 発行人:藤本隆之
∈ 発行所:展転社
∈ 印刷:シナノ
∈ 組版:生々文献
∈ 装丁:妹尾善史
∈ 製本:大石製本所
∈∈ 発行:2009年11月23日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ 推薦の辞――――――先覚者に学ぶ(伊達宗義)
         興亜の復権(頭山興助)
∈∈ 序にかえて アジア黎明の時代
∈  金玉均
∈  康有為
∈  アンドレス・ボニファシオ
∈  アナガーリカ・ダルマパーラ
∈  アルテミオ・リカルテ
∈  孫文
∈  李容九
∈  マハトマ・ガンジー
∈  オーロビンド・ゴーシュ
∈  ムハンマド・イクバール
∈  ウ・オッタマ
∈  クォン・デ
∈  宋教仁
∈  ビハリ・ボース
∈  マヘンドラ・プラタップ
∈  マハンマド・クルバンガリー
∈  ベニグノ・ラモス
∈  チャンドラ・ボース
∈  ピブーンソンラーム
∈  スカルノ
∈  モハマッド・ハッタ
∈  アウン・サン
∈  スハルト
∈  マハティール・ビン・モハマド
∈  ラジャー・ダト・ノンチック
∈∈ おわりに 国内維新から興亜へ
∈∈ 解題 クリストファー・スピルマン

⊕ 著者・訳者略歴 ⊕

坪内隆彦 (Takahiko Tsubouchi)
慶應義塾大学法学部卒業。日本経済新聞社記者を経て、フリーランスのジャーナリストとして独立。2004年11月8日、マハティール前首相(当時)に、クアラルンプールで単独インタビューに成功。その取材内容(「アジアの巨人 マハティール・ビン・モハマド インタビュー」)は 『わーずわーす』2005年2月号などに掲載された。対米自立の立場から「日本国憲法はアメリカから押し付けられたもの」と自主憲法の制定を提唱し[1]、イスラム教勢力の自己主張にも理解を示す(マレーシアではイスラム教が国教)。『月刊日本』編集長、拓殖大学日本文化研究所客員研究員などを務める。大夢館世話人会 代表世話人、崎門学研究会、大アジア研究会顧問。

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